歴史が裏打ちする赤石五葉松の価値
400年以上の歴史を誇る赤石五葉松
赤石五葉松の盆栽は、古くから赤石連峰の愛媛県四国中央市土居町の特産物として安土桃山時代より、400年以上の歴史を誇っています。
現在は、種から植えられた樹齢約50年~70年もの赤石五葉松約20万本が圃場に残っています。
明治から昭和初期
明治初期から山取りした苗を盆栽に仕立てる地元愛好家がいました。
盆栽熱が最初に高まったのは、大正末期から昭和初期にかけてで、当時はもっぱら山取りした苗を畑に移植して、2~3年後に鉢に移して盆栽に仕立て、売り出すものでした。当時、盆栽の栽培は農家の副業であり、専業に営む者はいませんでした。
昭和30年から本格的な生産地へ
赤石五葉松盆栽の需要は、高度経済成長の始まりである昭和30年(1955年)頃から急速に伸びはじめます。盆栽ブームとともに各地で多くの盆栽展示会が開催され初めたのもこの時期です。
実生苗の生産の始まった昭和30年代には、土居町の赤石五葉松の栽培面積は3ha程度でしたが、昭和40年代に入ると栽培面積・栽培戸数ともに急増しています。
昭和46年には栽培面積11ha、栽培戸数150戸、昭和50年には34ha、270戸、昭和55年には43ha、285戸。以後栽培面積は停滞し、昭和59年には43ha、285戸となりました。
山取りから実生へ
昭和30年代は、赤石山一帯にたくさんの五葉松が生えていて、山から採ってきたものは「山採り」と呼ばれ、関東から業者が頻繁に買いに来る程でした。
赤石山の山頂付近一帯の高山植物は、愛媛県の天然記念物(『赤石山の高山植物』昭和32年(1957年12月14日指定)に指定されました。
需要の高まりと共に山採りの苗は昭和34年頃までには取り尽くされてしまい、山で種子を採取し、種から苗を育てる、実生苗の仕立てをする方式にと変化していきます。
すると、種が入っている松かさの採取が盛んになり、乱獲が始まりました。他者よりも先に松かさを採取しようと、未熟な実を採ったり、実の入っていない種を採ったりと、乱獲が始まってしまいました。
種を売りすぎてどこでも生えるようになってくると、稀少価値がなくなっていくという問題も生じはじめました。
赤石五葉松が全国区へ
昭和36年(1961年)赤石五葉松を盆栽として全国に紹介し、販路を拡大して緑化運動を推進すると同時に、地場産業の振興を図るため、「第1回赤石五葉松展示即売会」が開催されます。
昭和37年(1962年)には「第2回赤石五葉松展示即売会」開催後に、十数名の生産者が会合し、全国的な生産出荷の要請に応えようと、「赤石五葉松盆栽組合(初代組合長森高七助氏)」が設立されました。
10人程の同士で、組合としての規約を作り、役員や理事を定めて、毎月第2日曜日を交換会日と定め、春秋には大市や畑市などを催し、赤石五葉松と生産者のカタログを制作し、全国に宣伝しました。
保護運動も精力的にはじまる
昭和38年(1963年)に、赤石山は高山植物の保存地域であり、五葉松の産地でもあるということで、絶滅寸前の五葉松を危機から守り、種子を確保するという目的で、「赤石五葉松保護組合」が結成されました。
地元の有志で自警団を組み、日夜現地の巡察、検問、張り込み等を実施しました。五葉松の種を採取する際は、町の教育委員会から立ち入りの許可を申請し、許可者と無許可者を区別するために許可腕章を付けて採取していました。
赤石五葉松は最高の地位を得る
販売に関しては、組合の積極的な働きかけもあって、赤石五葉松は各地で手応えがあり、みなこぞって五葉松の種を全国に売って儲け、その儲けで1軒家が立つ時代でした。
日本の高度成長の始まりだった昭和30年頃は、神武景気、岩戸景気、国民所得倍増政策の時期を含みながら、経済が極めてダイナミックに躍動した時期で、盆栽の需要も右肩上がりの時期でした。
昭和30年代なかばから昭和40年代半ばまで、盆栽ブームが到来し、赤石五葉松も需要を伸ばし、組合員数も段々多くなり、全盛期には64、5名となり「お金がほしければ五葉松を作れ」とまで言われる時代でした。
大量販売のブームが過ぎると、葉性(はしょう)や枝振りなどに注目して、「この木がほしい」という形で注文するお客さんが増えていきます。
そこで、カタログにナンバー付の写真をたくさん載せて、木を限定して販売し、その木がない場合にはそれに近い木を販売する、という方法に変わっていきました。
赤石五葉松 世界に目を向けるが..
昭和39年に東京オリンピック、昭和45年に日本万国博覧会もあり、開かれた日本となっていく社会情勢も手伝ってか、昭和30年代から昭和40年代にかけては、欧州からの研修生も受け入れていました。
一方、利敏な一部の業者が「赤石五葉松は世界的な名産、これを機会に、世界に売り出そう」と、赤石山系に登り成っている実を乱獲するようになりました。
そのうち、木を根元から切り倒して、採種するという荒っぽい方法も取られるようになり、樹齢数百年の五葉松が無残な姿に荒らされていってしまいました。
乱伐、盗伐を防ぐため、昭和40年に警察官、愛媛県教育委員会、関係教育委員会連合で採種の一斉抜き打ち取り締まりが行われました。
翌昭和41年には「赤石山系天然記念物保護対策協議会」が開かれ、管理についても行政、保護組合共通対策として、一層強化していくという共通認識を持ちました。
赤石五葉松 地元の特産品として
販売面では好調で、愛媛県の特産物であるみかんに継ぐ農産物として将来的にも期待が大きく、昭和46年(1971年)秋、愛媛県経済連、全国販売農業協同組合連合会(昭和47年に全国購買農業協同組合連合会が合併し全国農業協同組合連合会となる)系統団体として、土居町農協を通じて通信販売を始め、東京を中心とした関東周辺を主軸に、全国的にも知名度が上がっていきました。
国内盆栽ブームの終焉
昭和51年、赤石山系が愛媛県の自然環境保全地域に指定され、山での幼木の採取が禁止されます。
昭和61年には、昭和天皇御座位60年記念式典in日本武道館にて、メインステージの天皇陛下のお隣に当園赤石五葉松が選定され彩を添えるという興事もありました。
さりとて、高度経済成長期以来の好景気、嗜好品や贅沢品が飛ぶように売れたバブル経済が1990年代に終焉を迎えるのに伴い、盆栽ブームも収束していきます。
国内の盆栽需要は減少をたどり、栽培農家も減少していきました。
再び、世界に目を向ける
国内で隆盛を誇った赤石五葉松の販売も次第に落ち着きを見せはじめ、海外に販路を求め、昭和の終わり頃から五葉松の輸出がはじまります。
横浜の貿易商である新井清太郎商店や園芸会社の横浜植木株式会社、野菜の種を品種改良し、販売する大和農園の3社が取扱い会社でした。主な輸出先はEUで、そのほとんどはオランダでした。
次第に生産農家も減少していきます。ピーク時には300軒程だった生産農家も100軒程度に減少してしまいます。
産地の後継者問題
平成13年(2001年)を最後に解散した保護組合(赤石高山植物保護会)は、会員が10人程まで減り、解散時には10人を切っていました。その頃にも登山道の整備活動を行うという話が出ましたが、若い人の入会がなく、設立時のメンバーがそのまま年齢を重ねていたため、会員は高齢者ばかりで、整備活動を行うことはできなくなってしまっていました。
世界への足場を固める
赤石五葉松を取り巻く厳しい環境を打破しようと、海外市場開拓の試みがはじまっていきます。
平成26年(2014年)11月には、日本貿易振興会、愛媛、香川意両事務所の協力により、松盆栽の生産地として名高い高松市鬼無・国分寺地区を訪れたバイヤーを招致し、赤石五葉松をアピールしました。
徐々に海外市場への手応えを掴み、令和元年(2019年)7月(8月?)には「赤石五葉松」をヨーロッパへ送り出すため、産地である愛媛県四国中央市の生産者たちが、欧州市場への出荷を強化することを目的とし、「赤石五葉松輸出振興組合(会長森高準一氏)」を設立。
2021年10月には、キリスト教カトリックの総本山バチカン市国で、ローマ教皇フランシスコに赤石五葉松輸出振興組合長自ら謁見の機会を頂き、赤石五葉松を献上。赤石五葉松の欧州での知名度が一気に上がりました。
世界への足場を固める
「赤石五葉松輸出振興組合」は、その間も赤石五葉松の欧州への本格的な輸出に向けて準備を進め、令和2年(2020年)1月、初日は組合員5人が育てた樹齢10年から100年を超える盆栽など、約150本を出荷し、検疫、諸手続きなどを経て、現在市場への出荷を待つ状態です。
日本から輸出される植物には持ち込みの禁止や検疫などもあり、その経験を踏まえてドイツに展示培養所を開設することを予定しています。
現在四国中央市には、30軒程の五葉松栽培農家が残っています。五葉松の販売を行う赤石五葉松盆栽組合は現在も残っていますが、設立当時は60人以上いた会員が、盆栽ブームも収束し次第に減少し、今は42人になっています。
設立当時の会員資格は土居町関川地域の人だけでしたが、合併して四国中央市となってからは資格要件が緩和され、四国中央市以外にも西条、新居浜の人も加入し、現在も各方面に活動、情報発信を行っています。
これからの赤石五葉松
高齢化は進んでいますので後継者の育成が大切になってきています。
国内の盆栽を取り巻く状況は厳しいようですが、輸出振興組合の地道な活動もあり、少しずつ海外からの要望が増えており、海外市場開拓の試みも少しずつ成果が出ており、定期的に海外へ輸出するまでになりつつあります。
赤石五葉松は、栄えたり、衰退することもありつつ何百年もの歴史を重ねてきました。
種の乱獲、樹の盗伐なども経験し、産地崩壊の危機感を抱き「何としても五葉松を守り抜こう」と地元の生産者、有志により、自警団が結成され、赤石山系の五葉松を守った歴史を経て今現在があります。
世界に発信できる要素を十分に持つ赤石五葉松。
五葉松という樹そのものだけでなく、伝統と先人たちの心意気までが継承され、再び、始動しだした赤石五葉松。
先人たちが守り抜いた五葉松を、継承しているのが赤石五葉松なのです。
実生苗からの樹齢約50年もの、約20万本もの赤石五葉松が、生産者により丹念に育てられ、圃場にて雌伏の時を待っているのです。